しもあかさかじょうし

下赤坂城址

東阪
昭和9年建立「史蹟 赤坂城趾」石碑
下赤坂城の戦い
太平記では「赤坂城」としか書かれていませんが、周辺の描写から下赤坂城と上赤坂城のそれぞれで戦闘があったと考えられています。本城である上赤坂城に対し下赤坂城は出城として急ごしらえで建造されたものでした。1331年(元弘元年)に楠公は護良親王とともに下赤坂城に籠り幕府軍の大軍を迎え撃ちました。幕府軍の攻撃により下赤坂城は落城しますが、幕府軍は楠公と護良親王を捕獲することはできませんでした。
楠公の奇策
太平記では楠公が様々な奇策を用いて幕府軍を撃退したことが伝えられています。楠木正季と和田正遠の奇襲により散々に打ち破られた幕府軍は10万余騎を城へと向かわせます。城からの反撃はなく幕府軍は塀を乗り越えようとしますが、この塀は二重になっており、幕府軍が手をかけた瞬間塀が切り落とされ、700余人が戦死しました。幕府軍は再び塀を引き倒そうと試みますが、楠公は柄杓で熱湯をかけ、幕府軍はまたしても2、300余人が火傷を負いました。
下赤坂城落城
力攻めを諦めた幕府軍は兵糧攻めに方針を変えます。急ごしらえの下赤坂城には長期戦ができるほどの備蓄はなく、楠公は自ら下赤坂城に火を放ちます。幕府軍は楠公が自害したものと思い込みますが、楠公は密かに城から脱出していました。
連絡先 0721-72-1588(楠公史跡保存会)
住所 大阪府南河内郡千早赤阪村大字東阪25
アクセス 近鉄長野線「富田林」駅乗り換え、金剛バス「消防分署前」下車、徒歩10分
駐車場 無料(消防分署横にあります)
HP https://nanko-hsps.jimdofree.com/