楠木三代

正成公生誕(1294年)

楠公誕生地 楠公誕生地
生誕地
正成公は1294年(永仁2年)河内国の土豪楠木正遠(諸説あり)の子として千早赤阪村水分山ノ井で生まれたと言われます。 正成公の母は懐妊を祈願して信貴山朝護孫子寺の毘沙門天に何度も参詣しました。正成公は幼名を多聞丸といいますが、これは毘沙門天の異名が多聞天であることに由来します。

御祭礼
「楠公誕生地」では正成公の生誕を祝って4月25日に祭礼が行われ(楠公祭)、剣の舞や詩吟などが奉納されています。

龍覚・大江時親に学ぶ(1302~1309年)

観心寺中院 観心寺中院。正成公はここで学んだと伝えられています
僧・龍覚、大江時親に学ぶ
正成公は8歳から15歳までの間、楠木氏の菩提寺であった「観心寺」の中院で龍覚和尚より学問を学びました。 また大江時親からは「孫子」や「闘戦経」などの兵法を学びました。 正成公の奇策溢れる戦法の背景に、幼少時代に受けた教えがしっかりと息づいていたのでしょう。

観心寺 金堂・建掛塔
観心寺の金堂は後醍醐天皇の勅によって作られたもので、正成公自身も三重塔を建設しようとしましたが、正成公が湊川の戦いで亡くなられたために1階のみで中断してしまいました。この塔は現在建掛塔として再建されています。また観心寺には正成公の首塚も残っています。

出合藤森戎神社建立(1331年)

出合藤森戎神社 出合藤森戎神社
藤ノ森に御神体を納める
幕府軍との戦いを控えた1331年8月、正成公は藤ノ森に秘蔵の御神体を納め、この地に神社を建造します。この神社は1359年に足利義詮と畠山国清が下赤坂城を攻めた際に焼失してしまいます。現在の社殿は有志により大正期に再建されたものです。

下赤坂城の戦い(1331年)

下赤坂城址 周辺には戦いに由来する地名が多く残されています
二重の塀、熱湯攻めで幕府軍を撃退する
正成公は笠置山から後醍醐天皇をお迎えしようとしますが、後醍醐天皇は捕らえられ、護良親王と尊良親王のみが下赤坂城に移られます。 太平記によると、下赤坂城は急ごしらえの粗末な城で、一日も保ちこたえられないだろうと幕府軍は考えました。しかし正成公は幕府軍が油断した隙に三方から攻め込んだり、塀を二重にし大木や大石を降らせたり、熱湯をかけるなどの奇策を駆使し、幕府軍を繰り返し撃退しました。

下赤坂城に火を放つ
ですが急ごしらえの下赤坂城には十分な兵糧の蓄えがなく戦いが長引くにつれ食料がなくなっていきました。そこで正成公は下赤坂城に火を放ち、自害したと思わせ密かに落ち延びました。

下赤坂城奪還(1332年)

出合藤森戎神社 現在の出合藤森戎神社は大正期に再建されたものです
楠木七城
前年に下赤坂城を奪還した正成公は、来る幕府軍との再戦に備え、周辺に数々の要塞を築きます。 上赤坂城を本城として、金剛山に詰城として千早城、さらに出城として烏帽子形城、龍泉寺城(嶽山城)、金胎寺城などを築きました。 上赤坂城・下赤坂城・千早城を含めて、これらの城は楠木七城と呼ばれます。

上赤坂城の戦い(1333年)

上赤坂城址 上赤坂城址には当時の遺構が最もよく残されています
主将・平野将監、副将・楠木正季
正成公は上赤坂城の城主として平野将監を据え、弟の楠木正季を副将につけました。正成公自身は総大将として千早城に詰めます。

上赤坂城、水を絶たれ落城
幕府軍はまず上赤坂城に攻め込みました。楠木軍はよくこれを防ぎ幕府軍は多数の死傷者を出しました。そこで幕府軍は上赤坂城へと導かれた水路を探し出し、上赤坂城の水源を絶ちました。水源を絶たれた楠木軍はたちどころに干上がります。苦しみに耐えかねて平野将監は30人ほどを連れて降伏を申し出ました。ついに上赤坂城は陥落しましたが、幕府軍は楠木正季を捕らえることはできませんでした。降伏した平野将監はその後六条河原で処刑されたと太平記は伝えています。

千早城の戦い(1333年)

千早神社 本丸跡は千早神社となっています
籠城戦
幕府軍は上赤坂城を攻めるとほぼ同時に千早城に攻め入ります。 これまでの戦いの経験から幕府軍は早々に兵糧攻めに取り掛かります。しかし今度は楠木軍にも十分な蓄えがあり、戦闘は持久戦になります。

わら人形でおびき寄せる
籠城戦による気の緩みを看てとった正成公はまたも一計を案じ、わら人形を城外に並べ、幕府軍をおびき寄せます。十分に幕府軍が近づいたところで大量の大石を降らせ、幕府軍はまたしても大損害を出すことになりました。

長梯子を火攻めで破る
鎌倉からは矢継ぎ早の催促が来ます。進退窮まった幕府軍は巨大な長梯子を作り城内に攻め入ろうとしますが、正成公は火のついた松明を投げ、水鉄砲に油を入れて注ぎ込みました。将兵もろとも長梯子は焼け落ち、数千人が焼け死んだと太平記は伝えています。

六波羅陥落
幕府軍が千早城に釘付けになっている間に、足利高氏が六波羅探題に攻め込み陥落させます。幕府軍は撤退し、100日にわたり続いた千早城の戦いは正成軍の勝利で終わりました。

建水分神社遷座(1334年)

建水分神社 建水分神社・大鳥居
建武の新政
新田義貞が鎌倉幕府を陥落させたことにより、後醍醐天皇による新政が始まります。後醍醐天皇は翌1334年から元号を「建武」と改め、この元号にちなんで後醍醐天皇の治世は「建武の新政」と呼ばれています。

建水分神社、遷座
建水分神社はこのとき兵火により荒廃していました。後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成は、水越川河畔にあった建水分神社を現在地に移し、本殿、拝殿、鐘楼などを再建しました。

正成公の死(1336年)

楠木正成公御首塚 楠木正成公御首塚(観心寺)
献策は聞き入れられず
一度は敗れ九州へと落ち延びた足利尊氏は、劣勢を挽回し大軍を率いて都へと攻め上ります。新田義貞が迎え撃ちますが、敗走。正成公は、一旦都を捨て、尊氏軍を京へと誘い込んだ上で兵糧攻めにするよう進言しますが、「体面が悪い」とする公家により正成公の献策は退けられ、やむなく正成公は新田義貞の援軍に向かいます。

桜井の別れ
死を覚悟した正成公は桜井の駅(現在の島本町)で嫡子・正行公に河内へと戻るように諭します。同行しようと懇願する正行公に対し、正成公は後醍醐天皇より下賜された短刀を授け、今生の別れを告げます。

湊川の戦い
尊氏の奇襲により退路を断たれた正成公は、足利直義(尊氏の弟)の軍勢に突撃を仕掛けます。正成公は直義を討つまでもう一歩のところまで迫りますが、あえなく取り逃してしまいます。その後も正成公は16度も突撃を繰り返しますが、衆寡敵せず、ついに正成公は弟・正季と刺し違え自害して果てます。
正成公が歴史上に登場してわずか5年。たった5年ではありますが、正成公の活躍は日本人の心に深い感銘を残すことになったのです。